財団法人 北九州市芸術文化振興財団

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吉田 敬太郎(よしだ けいたろう)
 1899年5月〜〜1988年7月28日 (明治32年〜昭和63年)
 北九州市若松区出身  政治家
 侠客から政治家に転じた吉田磯吉の養子。小倉中学から長崎高商、東京商大へと進学。昭和11年九州石油を設立。福岡県議を経て、昭和17年衆議院議員となる。昭和20年造言蜚語罪、言論出版取締法違反などにより逮捕される。出獄後、昭和22年に洗礼を受けキリスト教信者となり、若松バブテスト教会再建のため牧師となる。昭和26年若松市長に当選、若戸大橋建設に尽力する。北九州市五市合併時は市長職務執行者を務め、第1回の市長選挙後に政界を引退。以後は、牧師として全国を伝道して回った。
「ひろば北九州」2002年1月号に掲載

岩松 助左衛門(いわまつ すけざえもん)
 1804年〜1872年4月25日 (文化元年〜明治5年)
 北九州市小倉北区出身  庄屋
 浦庄屋を長年務めた後、1861年、58歳の時に小倉藩から海上御用掛難破船支配役を命ぜられる。白洲付近での難破船の救助に携わった経験から、海難防止のために5千両という建築費用に私財を投げ打ち、灯台建設に東奔西走するが、完成を見ることなく病没。灯台は明治6年9月事業を引き継いだ明治政府により完成。小倉城内にこの灯台を模した記念碑と顕彰碑がある。
「ひろば北九州」2002年2月号に掲載
小倉北区まちづくり推進課

森 鴎外(もり おうがい)
 1862年2月17日〜1922年7月9日 (文久2年〜大正11年)
 島根県津和野町出身  軍医、作家
 東京帝国大学医学部卒業後、軍医となりドイツへ留学。帰国後、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」などを発表、文筆活動に入る。明治32年第12師団軍医部長として小倉に着任し、明治35年まで滞在。この間に『小倉日記』が書かれる。小倉滞在中は、新聞への寄稿など積極的に行ない、特に「冨を学問芸術の振興に使うべきだ」とする主張は、地元経済界に文化向上の意識を促した。
「ひろば北九州」2002年3月号に掲載
小倉北区まちづくり推進課

安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう)
 1849年5月9日〜1934年11月30日 (嘉永2年〜昭和9年)
 福岡市出身  実業家
 1849年黒田藩士徳永家の四男として生まれる。安川家の養子となり17歳の時、敬一郎と名を改め家督を相続。明治29年に明治炭坑株式会社、明治41年に明治紡績合資会社、大正6年に九州製鋼株式会社をそれぞれ設立するほか、鉄道、銀行経営も手がけた。人材育成にも力を注ぎ、技術者養成の専門学校として明治専門学校(現九州工業大学)を設立した。

「ひろば北九州」2002年4月号に掲載

松本 健次郎(まつもと けんじろう)
 1870年10月4日〜1963年10月17日 (明治3年〜昭和38年)
 福岡市出身  実業家
 安川敬一郎の次男。伯父松本潜の養子となる。米国ペンシルベニア大学で経済学を学んだ後、父敬一郎が経営していた炭坑業(のちの明治鉱業株式会社)に参画。明治41年から大正7年にかけて、紡績、電機、製鋼、窯業等の事業を興した。明治40年に、父敬一郎とともに、私財を投じて明治専門学校(現九州工業大学)を設立した。
「ひろば北九州」2002年4月号に掲載

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)
 1596年3月26日〜1667年12月3日 (慶長元年〜寛文7年)
 母が徳川家康の孫(信康の娘)で、徳川家康のひ孫にあたる。1615年大坂夏の陣で父と兄を亡くし、信濃国松本藩8万石を継ぐ。播磨国明石藩10万石を経て、1632年九州目付役譜代大名として小倉・小笠原藩15万石の初代藩主となる。
「ひろば北九州」2002年5月号に掲載
小倉城

即非禅師(そくひぜんじ)
 1616年6月27日〜1671年6月26日 (万暦44年〜寛文11年)
明・福州出身  僧侶
 京都万福寺を開いた明の僧 隠元の高弟。1657年隠元に招かれて来日。帰国のため長崎に向かう途中、小倉藩主小笠原忠真に招かれ、1665年広寿山福聚寺を開山する。1671年長崎の崇福寺で没した。
「ひろば北九州」2002年5月号に掲載
北九州市教育委員会 小倉北区まちづくり推進課

林 芙美子(はやし ふみこ)
 1903年12月31日〜1951年6月28日 (明治36年〜昭和26年)
 北九州市門司区出身  作家
出生地については、下関市という説もある。九州各地を行商で転々としながら幼少期を過ごし、尾道高女を卒業後上京。女給など職業を転々としながら著作を続け、1928年から雑誌「女人芸術」に私小説「放浪記」を連載。1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなる。戦時中は報道班員(従軍作家)となり、中国やフランス領インドシナに従軍。戦後も多くの小説・随筆を発表。「晩菊」で女流文学者賞を受賞。1951年心臓麻痺のため急逝。代表作「放浪記」は菊田一夫作、森光子主演で日本演劇史上、同一主演者によるロングラン記録を樹立している。
「ひろば北九州」2002年6月号に掲載
北九州市立文学館

火野 葦平(ひの あしへい)
 1906年12月3日〜1960年1月24日 (明治39年〜昭和35年)
 北九州市若松区出身  作家
 小倉中学在学中から文学活動をはじめる。早稲田大学英文学部へ進学するが中退。一時家業を継ぐが、昭和12年日中戦争に応召。昭和13年出征前に執筆した「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞。その後の「麦と兵隊」、「土と兵隊」、「花と兵隊」とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーとなる。戦後は一時公職追放を受けたが、追放解除後は若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で往復するなど精力的に活動し、「花と竜」、「革命前後」など数多くの作品を送り出した。昭和47年1月24日死去。同年5月、「革命前後」および生前の業績により日本芸術院賞を受賞した。

「ひろば北九州」2002年7月号に掲載
若松区まちづくり推進課 北九州市立文学館

小林 安司(こばやし やすじ)
 1910年7月15日〜2002年5月9日 (明治43年〜平成14年
北九州市小倉北区出身  大学教授
北九州大学教授を経て、初代中央図書館館長。1994年に森鴎外の「小倉日記」に解説、語注、年譜、人名索引などを収めた「森鴎外・小倉日記」を出版。北九州における森鴎外顕彰活動に尽力した。
「ひろば北九州」2002年8月号に掲載

菅原 道真(すがわら みちざね)
 845年6月25日〜903年2月25日 (承和12年〜延喜3年)
 京都市出身
 平安時代の学者、漢詩人、政治家。特に漢詩に優れ、33歳のときに文章博士に任じられる。宇多天皇に重用され右大臣にまで昇るが、左大臣藤原時平の讒訴により、大宰府へ権帥として左遷され、そこで没した。現在は学問の神として親しまれる。大宰府への下向の途中、菅原道真は椎田(現 築上町)から北九州(小倉、戸畑、若松)を経由したといわれており、市内には菅公にまつわる伝説や史跡が残っている。
「ひろば北九州」2002年9月号に掲載
戸畑まちづくり推進課

細川 ガラシャ(ほそかわ がらしゃ)

夫・細川忠興
 1563年〜1600年8月25日 (永禄6年〜慶長5年)
 明智光秀の三女、夫は豊前国初代藩主の細川忠興。キリスト教の洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。関ヶ原の戦い直前の1600年7月西軍の石田三成の人質になることを拒み自決。ガラシャの死により東軍は結束を強め、徳川勝利の一因を作ったといわれる。1601年細川忠興は小倉に教会堂を建て、追悼のための荘厳な祭式を催したといわれる。
「ひろば北九州」2002年10月号に掲載

劉 寒吉(りゅう かんきち)
1906年9月18日〜1986年4月20日 (明治39年〜昭和61年)
 北九州市小倉北区出身  作家
小倉商業高校卒業。作家業の傍ら、同人誌「九州文学」の編集を25年間続け、森鴎外文学碑の建立、鴎外旧居保存の提唱、小倉城の復元など幅広く文化活動に尽力し、「北九州文学活動の父」と言われる。昭和18年「山河の賊」で第3回九州文学賞受賞。「人間競争」、「翁」が芥川賞候補に、「十時大尉」と「風雪」が直木賞候補にそれぞれ選ばれた。
「ひろば北九州」2002年11月号に掲載
北九州市立文学館

芳賀 種義(はが たねよし)
 1861年9月28日〜1939年2月28日 (文久元年〜昭和14年)
北九州市八幡東区出身  庄屋
 八幡村村長として、官営八幡製鐵所の誘致に尽力、今日の八幡の礎を築く。自ら地元住民への説得にあたったり、私財を投じるなど積極的な誘致運動を展開した。地元政財界の支援を受けた官民一体の誘致活動の結果、『当省所管ノ製鉄所ハ、福岡県下、筑前国八幡ニ之ヲ置ク』との政府の告示が明治30年2月6日に出された。八幡村長を6年間務めた後、県会議員、八幡商工会会長など多方面で活躍した。

「ひろば北九州」2002年12月号に掲載

宮本 武蔵(みやもと むさし)
 1584年〜1645年 (天正12年〜正保2年)
 「五輪書」によれば播磨国(現在の兵庫県)出身  剣豪
 「巌流島の決闘」により古くから小倉を全国に知らしめた剣豪。また、1634年51歳の時に小倉に来遊し、以後6年間小倉藩主小笠原忠真の客分として逗留した。武蔵の養子・伊織は家老として小倉の城内に屋敷を構え、武蔵没後9年目にあたる1654年小倉の手向山に武蔵の彰徳碑を建立している。
「ひろば北九州」2003年1月号に掲載
小倉北区まちづくり推進課 (社)北九州市観光協会

黒田 晴嵐(くろだ せいらん)
 1899年2月16日〜1945年2月16日 (明治32年〜昭和20年)
 北九州市小倉北区出身  児童舞踊家
 小倉北区魚町にあった西蓮寺(同区三萩野に移転)で生まれる。大正12年に「黒田児童芸術協会」を設立するなど児童舞踊の先駆者として、童話や歌と連携して、指導・普及に尽力した。
「ひろば北九州」2003年2月号に掲載

橋本 多佳子(はしもと たかこ)
 1899年1月15日〜1963年5月29日 (明治32年〜昭和38年)
 東京都出身  俳人
 大正6年橋本豊次郎と結婚、大正9年櫓山荘を新築し小倉へ移り住む。杉田久女に俳句の手ほどきを受け、「ホトトギス」に投句。豊次郎とともに小倉児童芸術協会の主催者となるなど地域文化活動にも貢献した。昭和4年大阪に移り、高浜虚子、山口誓子へ師事し、「馬酔木」同人となる。昭和23年より「天狼」に同人として参加。昭和25年「七曜」主宰となる。
「ひろば北九州」2003年3月号に掲載
小倉北区まちづくり推進課 北九州市立文学館

柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん)
 1885年10月15日〜1967年2月22日 (明治18年〜昭和42年)
 東京都出身  歌人
 華族を捨て愛を選んだ歌人。華族学校を中退し16歳で北小路資武と結婚したが6年で離婚。明治45年九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し、「筑紫の女王」と呼ばれたが、社会運動家・宮崎龍介と出会い、大正11年に新聞で「白蓮の絶縁状」を公開し、駆け落ちした。駆け落ち後、京都に隠れ住んでいた白蓮を支えた宇城信五郎が創設した東筑紫学園(小倉北区)には、白蓮自筆の短冊や掛け軸などが残されている。
「ひろば北九州」2003年4月号に掲載

森友 忠生(もりとも ただお)
 1930年1月13日〜2002年7月21日 (昭和5年〜平成14年)
 行橋市出身
 日本大学農獣医学部を卒業後、西日本鉄道に入社、到津遊園に勤務。昭和47年に初の獣医出身の園長となり、以後15年間在任。昭和63年に海の中道海洋生態科学館館長となり、40数年にわたり動物園、水族館で勤務した。地域に開かれた動物園作りを目指し、動物と自然愛護の心を広めた。
「ひろば北九州」2003年5月号に掲載

志摩 海夫(しま うみお)
 1908年3月10日〜1993年1月24日 (明治41年〜平成5年)
 朝倉郡杷木町出身  詩人
 小倉工業高校卒業後、八幡製鉄所に勤務。詩誌「八幡船」「海船」「日本詩人」「第二期九州文学」などに作品を発表。昭和20年11月岩下俊作らとともに詩誌「浪漫」を創刊。昭和21年から昭和38年の定年まで、製鐵所所内報「くろがね」の詩の選者を務める。昭和49年岡田武雄と文芸誌「未来樹」を創刊した。福岡県先達詩人顕彰。
「ひろば北九州」2003年6月号に掲載

岩下 俊作(いわした しゅんさく)
 1906年11月16日〜1980年1月30日 (明治39年〜昭和55年)
北九州市小倉北区出身  作家
 小倉工業高校卒業後、八幡製鉄所に勤務。昭和13年同人誌「九州文学」に参加。「富島松五郎伝」で、昭和14年下半期、翌年上半期の直木賞候補に挙げられるも受賞を逃す。さらに、昭和15年「辰次と由松」で下半期直木賞候補、昭和18年には「西域記」で上半期の芥川賞候補となったが、いずれも受賞にはいたらなかった。昭和36年八幡製鉄所を退職。明治通信社に勤務しながら執筆にはげみ、多くの作品を残した。「富島松五郎伝」は後に「無法松の一生」と改題され映画化、爆発的な人気を博した。
「ひろば北九州」2003年7月号に掲載
八幡東区まちづくり推進課 北九州市立文学館

吉永 卯太郎(よしなが うたろう)
 1881年8月26日〜1964年 (明治14年〜昭和39年)
 北九州市門司区出身  歴史家
 明治27年私塾晩翆塾に入塾、東京で遊学した後、明治37年企救郡立馬島小学校教師となる。明治39年 門司新報記者を3年務めた後、社友として活躍。その後、黄檗宗史及び企救郡史の研究に専念する。 昭和28年門司市嘱託となり、門司郷土叢書の著述・編纂を行った。
「ひろば北九州」2003年8月号に掲載

竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)
 1884年9月16日〜1934年9月1日 (明治17年〜昭和9年)
岡山県出身  画家・詩人
 大正浪漫を代表する画家。数多くの美人画を残し、その作品は「夢二式美人」と呼ばれる。16歳の時、家族6人とともに八幡に転居し、一時北九州市の地に住んでいた。「宵待草のやるせなさ」と刻まれた文学碑がつくられ、毎年9月、八幡東区枝光で「夢二まつり」が催されている。
「ひろば北九州」2003年9月号に掲載
八幡東区まちづくり推進課

宮本 伊織(みやもと いおり)
 1612年11月13日〜1678年5月18日 (慶長17年〜延宝6年)
 播磨国(現在の兵庫県)出身
 宮本武蔵の兄・田原久光の二男で武蔵の養子。武蔵の推挙により15歳の時に播州明石藩主・小笠原忠真(当時忠政)に仕え、弱冠20歳で執政職(家老)となる。忠真の転封に伴い小倉へ移り、城内下屋敷に移り住んだ。武蔵没後9年目にあたる1654年小倉の手向山に武蔵の彰徳碑を建立。その小倉碑文(漢文)一千百余文字は、以後の『武州傳来記』や『二天記』など武蔵伝記の基となっている。
「ひろば北九州」2003年10月号に掲載
小倉北区まちづくり推進課

平野 遼(ひらの りょう)
 1927年2月8日〜1992年11月24日 (昭和2年〜平成4年)
 大分県佐賀関町出身  画家
 自身と向き合いながらひたすらに芸術を追求した「魂の画家」。表面に惑わされることなく、人間存在の核心に迫るような、独自の深い色調で描いた抽象絵画が有名。日常の散歩や旅先で目にした人々・風景を軽快なタッチで描いた素描や水墨画を数多く残している。父が八幡製鐵所に勤めることになり、生後半年で八幡東区へ転居、結婚後は小倉北区黒原で数多くの作品を生み出した。
「ひろば北九州」2003年11月号に掲載

種田 山頭火(たねだ さんとうか)

(小林銀汀さん撮影)
 1882年12月3日〜1940年10月11日 (明治15年〜昭和15年)
 山口県防府市出身  俳人
 季語や字数にとらわれない自由律に属す独特の俳句で知られる。昭和5年下関市から八幡市にやって来た種田山頭火は、俳句で知り合った星城子宅に宿泊。星城子、俊和尚と三人で河内貯水池を訪れた時に詠んだ句(「水を前に墓一つ」)が刻まれた碑が帆柱新四国大三十番札所の広場にある。
「ひろば北九州」2003年12月号に掲載
八幡東区まちづくり推進課

杉田 久女(すぎた ひさじょ)
 1890年5月30日〜1946年1月21日 (明治23年〜昭和21年)
 鹿児島県鹿児島市出身  俳人
 お茶の水高等女学校卒業後、明治42年小倉中学の美術教師・杉田宇内の妻として移り住む。大正5年より兄の手ほどきで句作を始め、大正7年には「ホトトギス」の雑詠欄に入選する天性の才能を発揮した。昭和9年「ホトトギス」同人となるも、後に除名された。昭和21年大宰府にて逝去。
「ひろば北九州」2004年1月号に掲載
小倉北区まちづくり推進課

僧・清虚(せいきょ)
 1777年〜1850年 (安永6年〜嘉永3年)
 大分県東国東郡出身  僧
 江戸時代、関門海峡の航海の難所といわれていた場所(部埼)で、灯台が無い時代に灯台の代わりに13年間もの長きにわたって燈明を焚き続け、船の安全を図った僧。清虚が74歳で世を去った後は、村人らによって燈明の火は焚き続けられ、明治5年に洋式灯台ができるまで11年間続けられた。部埼には清虚の偉業を称える像がある。
「ひろば北九州」2004年2月号に掲載

みずかみかずよ(みずかみ かずよ)
 1935年4月1日〜1988年10月3日 (昭和10年〜昭和63年)
 北九州市八幡東区出身  詩人
少年詩集を数多く出版。詩「赤いカーテン」をはじめ七編の詩が国語教科書に採用されるなど児童詩の分野で活躍。没後、500余りの詩が夫の手で編され「みずかみかずよ全詩集 いのち」として出版され、平成8年に丸山豊記念現代詩賞を受賞した。
「ひろば北九州」2004年3月号に掲載

金子 みすゞ(かねこ みすず)

「写真提供:金子みすゞ著作保存会」
 1903年4月11日〜1930年3月10日 (明治36年〜昭和5年)
山口県長門市出身  詩人
大正末期から昭和初期の童謡詩人。詩人・西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛され、26歳の若さでこの世を去る間に512編もの詩を綴った。20歳のとき仙崎から下関へ移る。門司にレコードを買いに来るなど、関門地域が生活の拠点であった。
「ひろば北九州」2004年4月号に掲載

星野 順一(ほしの じゅんいち)
 1905年9月27日〜1996年1月22日 (明治38年〜平成8年)
 北九州市若松区出身  画家・詩人
 詩誌「九州文化」、「九州芸術」同人を経て、文芸同人誌「第二期 九州文学」の創刊に参加。その後、詩誌「浪漫」に同人参加する。同時に画家としても活躍した。昭和16年北九州美術家連盟を設立。八幡美術協会会長などを務め、昭和59年地方文化に貢献した功績により勲六等単光旭日賞を受賞した。
「ひろば北九州」2004年5月号に掲載

石原 無堂(いしはら むどう)
1908年8月6日〜1999年1月13日 (明治41年〜平成11年)
北九州市門司区出身  尺八奏者
 虚無僧姿で北九州市や下関市内を托鉢し、森鴎外の小倉着任を記念する式典や火野葦平忌などで尺八を奏でていた。普化尺八乞食修行者と自称していた明暗流尺八大師範。
「ひろば北九州」2004年6月号に掲載

山口 誓子(やまぐち せいし)
 1901年11月3日〜1994年3月26日 (明治34年〜平成6年)
 京都市生出身  俳人
 「新興俳句運動」の指導者的な存在。東大法学部在学中に東大俳句会に参加し、高浜虚子に指導を受ける。戦前は、ホトトギス派の新鋭として活躍、昭和23年「天狼」を創刊、戦後の俳句復活に寄与した。高炉台公園内には、親交のあった横山白虹が建立した友情句碑がある。
「ひろば北九州」2004年7月号に掲載
八幡東区まちづくり推進課

谷口 廣保(たにぐち ひろやす)
 1920年7月23日〜1998年12月20日 (大正9年〜平成10年)
 福岡県碓井町出身  教育者
 福岡教育大学附属小倉小学校等の教諭を経て、北九州市教育委員長などを務めた。児童詩教育の普及に努め『国語教育への小さな発言』を出版。福岡教育大学、北九州大学等において後進の育成にも尽力した。日本国語教育学会理事や全国国語教育実践研究会幹事を務め、文部大臣表彰を受賞。北九州国語教育研究会を発足させた人物。
「ひろば北九州」2004年8月号に掲載

花田 俊典(はなだ としのり)
 1950年9月25日〜2004年6月2日 (昭和25年〜平成16年)
福岡県津屋崎町出身  学者
 九州大学文学部教授。専門は近現代文学、特に坂口安吾・太宰治など。九州文化のデータベース化に尽力し、「スカラベの会」を設立。

「ひろば北九州」2004年9月号に掲載

高田 一夫(たかだ かずお)
 1906年4月29日〜1982年2月24日 (明治39年〜昭和57年)
 山口県徳山市出身  木版画家
 八幡製鉄所に勤める傍ら、独学で木版画を制作しはじめ、国画会への出品・入選を通して棟方志功らとも親交を持ち、日本板画院の結成にも深く関わった。労働者を題材とした版画作品を数多く残す一方、昭和26年当時としては企業メセナ(文化支援活動)の早い例と言える職場絵画サークル「生活美術協会」を創立し、後進の指導にあたった。
「ひろば北九州」2004年10月号に掲載

松下 竜一(まつした りゅういち)

(「草の根通信」終刊号より)
 1937年2月15日〜2004年6月17日 (昭和12年〜平成16年
 大分県中津市出身  作家
 中津北高卒業後、家業の豆腐屋を継ぐ。昭和44年処女作「豆腐屋の四季」がベストセラーになり、緒形拳主演でテレビドラマ化される。昭和45年に豆腐屋を廃業し、著述業一本に。昭和48年機関誌「草の根通信」を創刊、環境や反戦運動に取り組む。北九州市には度々訪れていた。
「ひろば北九州」2004年11月号に掲載

柳田 桃太郎(やなぎだ ももたろう)
 1907年2月13日〜2004年8月8日 (明治40年〜平成16年)
 北九州市門司区出身  政治家
 最後の門司市長として、立案した「合併特例法」を自治省に持ち込み国会で通すように直談判するなど、五市合併による北九州市誕生に尽力。昭和40年参議院議員に当選、2期務めた後に引退。
「ひろば北九州」2004年12月号に掲載

横山 白虹(よこやま はっこう)
 1899年11月8日〜1983年11月18日 (明治32年〜昭和58年)
 東京都出身  俳人
 九州大学医学部卒業。九大在学中の大正14年「九大俳句会」を設立。九州大学医学部講師を経て、小倉北区に外科病院を設立したが、昭和21年火事で病院を消失し、俳句の道を選ぶ。以後、市議会議員、議長等を歴任するとともに、昭和38年に北九州文化連盟を発足させ、文化団体を育成した。白虹句碑は市内に六基立ち、北九州の現代俳人としては最も多い。
「ひろば北九州」2005年1月号に掲載
八幡東区まちづくり推進課

出光 佐三(いでみつ さぞう)
 1885年8月22日〜1981年3月7日 (明治18年〜昭和56年)
 福岡県宗像市出身  実業家
 石油元売会社出光興産の創業者。神戸商業高等高校(現・神戸大学)卒業後、神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店。その後日田重太郎から資金6,000円を渡され、満25歳で独立。北九州市門司区に出光商会を設立し、日本石油(現・新日本石油)の特約店として機械油を扱った。 以後、関東大震災、世界恐慌、第二次大戦と続く中、アジア各地に販路を拡大した。氏が集めた陶磁器や絵画など約4万点の美術品を所蔵する「出光美術館(門司)」が門司港レトロ地区にある。
「ひろば北九州」2005年2月号に掲載
出光美術館(門司)

穴井 太(あない ふとし)
 1926年12月28日〜1997年12月29日 (昭和元年〜平成9年)
 大分県九重町出身  俳人
 2歳より戸畑で育ち、北九州市で中学教師として勤務。昭和40年「天籟通信」を創刊、昭和46年に(深い俳句を目指し)自宅で自由闊達な「天籟塾」を始める。昭和49年に現代俳句協会賞受賞。句集「鶏と鳩と夕焼けと」、「土語」、「ゆうひ領」、「天籟雑唱」、「原」、「卿樹林」などの作品がある。
「ひろば北九州」2005年3月号に掲載
戸畑区まちづくり推進課

水野 勲(みずの いさお)
 1914年8月10日〜2005年2月19日 (大正3年〜平成17年)
 中国旅順出身  KITA初代理事長
 板櫃小学校、小倉師範附属小倉小学校、小倉中学校、旧制福岡高校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業。日本製鉄に入社、八幡製鐵所に赴任する。新日鐵副社長・八幡製鐵所長を務めた。退職後、北九州国際研修協会(KITAの前身)の理事長に就任し、以後25年間、協会理事長として生産性向上と環境技術の研修に尽力した。
「ひろば北九州」2005年4月号に掲載

井手 伊親(いで これみ)
 1868年6月1日〜1938年10月8日 (明治元年〜昭和13年)
 福岡県出身  教育者
 福岡藩士荒木家で生まれ、井手家の養子となる。福岡中学校高等科を卒業後、明治21年小学校訓導免状を受け、小倉高等小学校(現・小倉中央小学校)に就任、明治33年校長となる。校務の傍ら青年夜学会を起こし、小倉青年会を創設するなど社会教育にも貢献し多くの賞を受賞した。大正14年に小倉市立記念図書館館長に就任、郷土資料の発掘・収集し図書館の基礎を築く。
「ひろば北九州」2005年5月号に掲載

安川 寛(やすかわ ひろし)
 1903年1月12日〜1999年2月18日 (明治36年〜平成11年)
 東京都出身  実業家
 小倉中学校から、七高、東京帝国大学工学部へ進む。同大講師の後、昭和11年取締役として安川電機製作所に入社。昭和19年41歳で第3代社長に就任。昭和50年まで社長職、昭和60年まで会長職、その後は名誉会長として、戦後の変動の半世紀、安川電機の変身と地元北九州の発展をリードした。
「ひろば北九州」2005年6月号に掲載

阿南 哲朗(あなん てつろう)
 1903年1月10日〜1979年8月2日 (明治36年〜昭和54年)
 大分県竹田市出身  民謡詩人
 北九州の児童文化活動を牽引した民謡詩人。4歳のとき一家で小倉北区馬借に転居し、小倉高等小学校、小倉高等簿記学校を卒業し、西鉄に入社。昭和7年到津遊園の開園に伴い同園勤務となる。民謡・童話・校歌の作詞や口演童話など多彩な活動は、多くの人に支持された。小倉太鼓祇園のはやし言葉を改作した人物でもある。
「ひろば北九州」2005年7月号に掲載
八幡西区まちづくり推進課

伊馬 春部(いま はるべ)
 1908年5月30日〜1984年3月17日 (明治41年〜昭和59年)
 北九州市八幡西区出身  歌人・劇作家
 テレビ放映が始まった昭和15年、その実験放送で初めての放映脚本を担当。その後も放送作家や歌人として幅広い分野で活躍した放送作家の草分け的存在。昭和22年NHKの連続放送劇「向う三軒両隣り」が人気を博し、翌年、東宝で映画化された。昭和31年NHK第7回放送文化賞受賞。昭和36年「国の東」で芸術祭奨励賞を受賞した。
「ひろば北九州」2005年8月号に掲載

原田 磯夫(はらだ いそお)
 1909年8月8日〜1997年8月10日 (明治42年〜平成9年)
 北九州市八幡市出身  記者・編集者
朝日新聞西部本社に勤務し、北九州市に暮らした。朝日新聞西部支部長を最後に退職。昭和43年2月から昭和56年2月まで地域文化誌「九州人」全157冊を編集発行し、地域文化の振興に尽力した。
「ひろば北九州」2005年9月号に掲載

大迫 忍(おおさこ しのぶ)
 1945年8月13日〜2005年6月18日 (昭和20年〜平成17年)
 大分県出身  実業家
 中央大学文学部卒業後、父の興した善隣出版社(後の株式会社ゼンリン)に入社。昭和55年代表取締役社長に就任。実地調査を元に地図情報のデータベース化を推し進め、電子地図やカーナビゲーションなど時代を先取りした事業展開を行い住宅地図業界で売り上げ日本一を達成。カーナビゲーションソフト業界でも大手となり海外進出も果たした。平成13年に社長を退任した後は、北九州経済の浮揚に奔走。旧小倉そごう跡への小倉伊勢丹の誘致や、新北九州空港の運営会社社長に就任し新規航空会社スターフライヤーの立上げ支援を行うなど、北九州市内外の経済界でリーダーシップを発揮した。
 また、平成7年にJRAの馬主資格を取得。「ゼンノ」の冠名で知られ、ゼンノエルシド、ゼンノロブロイといったGI優勝馬のオーナーとしても有名。
「ひろば北九州」2005年10月号に掲載

村野 藤吾(むらの とうご)
 1891年5月15日〜1984年11月26日 (明治24年〜昭和59年)
 佐賀県唐津市出身  建築家
 日本を代表する建築家の一人。小倉工業学校(現・小倉工業高校)を卒業後、八幡製鐵所に入社。従軍中、学問に興味を持ち、早稲田大学理工学部電気工学科に入学、建築学科へ転学した後、27歳で卒業。昭和4年村野建築事務所開設、昭和24年村野・森建築事務所に改称。昭和30年日本芸術院会員。昭和42年文化勲章受賞。日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。世界平和記念聖堂(広島市)の設計や迎賓館本館(旧赤坂離宮)の改修などを手がけ、本市では八幡、小倉の両市民会館を設計した。
「ひろば北九州」2005年11月号に掲載

野杉 春男(のすぎ はるお)
 1930年3月27日〜1972年11月29日 (昭和5年〜昭和47年)
 福岡県山田市出身  教育者
 福岡学芸大学(現・福岡教育大学)を卒業後、小倉市三郎丸小学校に勤務。昭和26年に同校に新設された養護学級の担任となり、以後北九州で知的障害児の教育に生涯を捧げ、養護教育充実の人材育成に奮闘した。萩ヶ丘小学校教頭であった昭和47年、文部省心身障害児教育視察団の一員として出張していたモスクワで飛行機事故に遭い、志しなかばで殉職した。
「ひろば北九州」2005年12月号に掲載

藤田 哲也(ふじた てつや)

(WEATHER WISE誌より転載)
 1920年10月23日〜1998年11月19日 (大正9年〜平成10年)
 北九州市小倉南区出身  気象学者
 小倉中学校、明治専門学校(現・九州工業大学)を卒業後、昭和28年東京大学で「台風の研究」で学位を取得(理学博士)。その後、シカゴ大学のバイヤース教授に招かれ渡米、昭和40年シカゴ大学教授に就任。竜巻やダウンバースト現象などの研究で知られ、「ドクター・トルネード(竜巻博士)」と呼ばれ尊敬を集める。竜巻の大きさの国際的な基準として用いられる「F(フジタ)スケール」は藤田氏の考案によるもの。シカゴ大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。
「ひろば北九州」2006年1月号に掲載

野見山 朱鳥(のみやま あすか)
 1917年4月30日〜1970年2月26日 (大正6年〜昭和45年)
 福岡県直方市出身  俳人
 絵画を志すが病にかかり、俳句に専念。昭和20年「ホトトギス」に投句を始め、29歳でホトトギスの巻頭となり俳壇に知られる。昭和24年に創刊した『菜殻火』は、朱鳥没後も夫人が引継ぎ、平成18年4月に650号を超えた。
「ひろば北九州」2006年2月号に掲載

佐野 経彦(さの つねひこ)
 1834年2月16日〜1906年10月16日 (天保5年〜明治39年)
 北九州市小倉南区出身  神道家
 筑前で巫部系の神道を布教し、藩の圧迫を受ける。明治初年に神理教を形成し、教導職試補の資格を得て、明治13年神理協会を小倉に設立。神道本局所属から明治21年御嶽教に転属し、明治27年独立。地域の事情にも詳しく、漁業関係者の承諾書をとりまとめ、門司築港の許可を県に願い出るなど門司築港に奔走した。
「ひろば北九州」2006年3月号に掲載

玉井 政雄(たまい まさお)
 1910年3月25日〜1984年10月8日 (明治43年〜昭和59年
 北九州市若松区出身  学者
 火野葦平の弟。五高を経て、東大法学部を卒業。戦前は、家業である「玉井組」、「福岡日日新聞社(現・西日本新聞社)」などに勤務。戦後、東筑紫短大教授、北九州大学、西南女学院短大講師などを務め、地方文化育成に尽力。数多くの民話や郷土資料を掘り起こし多数の著書を残した。
「ひろば北九州」2006年4月号に掲載

村上 巧児(むらかみ こうじ)
 1879年8月24日〜1963年10月21日 (明治12年〜昭和38年)
 大分県中津市出身  実業家
 井筒屋初代社長。到津遊園の開園に尽力。中津市の医家に生まれ、早稲田大学政治経済科を卒業後、大阪毎日新聞社、三越、九州水力電気(後の九電)、九州電気軌道(後の西鉄)などに勤務。正五位勲三等瑞宝章受章。
「ひろば北九州」2006年5月号に掲載

石原 宗祐(いしはら そうゆう)
 1710年〜1806年6月9日 (宝永7年〜文化3年)
 北九州市門司区出身  庄屋
 江戸時代中期、85歳で曽根新田の開発を命じられ、私費を投じて84ヘクタールの田をつくった人物。猿喰の海も田に変えるなど、飢饉救済に生涯をかけた。猿喰新田、曽根新田に頌徳碑が建立されている。
「ひろば北九州」2006年6月号に掲載
門司区まちづくり推進課

野口 雨情(のぐち うじょう)
 1882年5月29日〜1945年1月27日 (明治15年〜昭和20年)
 茨城県出身  詩人
 「赤い靴」、「シャボン玉」など多くの名作を残し、北原白秋、西条八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。昭和7年八幡市を訪れた雨情とその門下生であり北九州市出身の童話作家・阿南哲朗が皿倉山に登った時につくった詩が、詩碑として同山頂にある。このほか、雨情は北九州ゆかりの詩を数多く残している。
「ひろば北九州」2006年7月号に掲載
八幡東区まちづくり推進課

神崎 義夫(かんざき よしお)
 1913年5月27日〜2006年2月11日 (大正2年〜平成18年)
 北九州市小倉北区出身  学者
 北九州市立大学名誉教授。専門は都市の社会経済史。北九州五市合併や北九州市長期総合基本計画の策定に貢献。日本都市学会監事、九州都市学会会長などを歴任。「北九州の歴史」、「小倉経済年表」など著書多数。
「ひろば北九州」2006年8月号に掲載

名和 羊一郎(なわ よういちろう)
 1907年2月〜11月10日 (明治40年〜昭和42年)
 北九州市若松区出身  考古学者
 小倉工業学校(現・小倉工業高校)中退後、職業につきながら考古学研究に従事、九州考古学会の会員となり、北九州考古学界で活躍。昭和6年水巻町で弥生式土器を発見し、「遠賀川式土器の発見者」として学界で知られた。
「ひろば北九州」2006年9月号に掲載

アインシュタイン(Albert Einstein)
 1879年3月14日〜1955年4月18日 (明治12年〜昭和30年)
 ドイツ出身  物理学者
 相対性理論をはじめ多くの業績をもつ20世紀最大の理論物理学者。大正11年に訪日の際、滞在最後の1週間を関門、福岡で過ごし、門司港・三井倶楽部にも宿泊。
「ひろば北九州」2006年10月号に掲載

渡辺 葉子(わたなべ ようこ)
 1953年7月12日〜2004年7月15日 (昭和28年〜平成16年)
 北九州市八幡市出身  ソプラノ歌手
 明治学園高等学校、東京藝術大学声楽科卒業。イタリア、ミラノ・スカラ座付属研究所を修了。
「世界四大歌劇場」といわれるミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、ロイヤル・オペラハウス・コベントガーデンを主役で制覇するという偉業を成し遂げた唯一の日本人ソプラノ。「蝶々夫人」、「トゥーランドット」、「ラ・ボエーム」などをレパートリーに世界の一流歌劇場で目覚しい活躍を続けた。藤原歌劇団団員。
「ひろば北九州」2006年11月号に掲載

竹下しづの女(たけした しづのじょ)
 1887年3月19日〜1951年8月3日 (明治20年〜昭和26年)
 福岡県行橋市出身  俳人
 福岡女子師範卒業。京都郡の小学校訓導の後、小倉師範学校助教諭となるが結婚のため退職。昭和8年夫が急逝、生活を支えるべく福岡市立図書館の出納手になる。高浜虚子主催「ホトトギス」の巻頭を飾るなど次々と優れた作品を発表し、杉田久女らと共に女流俳句の黄金時代を築いた。
「ひろば北九州」2006年12月号に掲載

島村 志津摩 (しまむら しづま)

(金辺峠に立つ島村志津摩の碑)
 1833年3月28日〜1876年8月18日 (天保4年〜明治9年)
 北九州市小倉北区出身  小倉藩家老
 幕藩体制の終幕時に譜代藩として、孤軍となって長州軍と戦った小倉藩の家老。小倉藩重臣の子として小倉城内で生まれ、10歳で家督を継ぎ、20歳で家老職に就任。長州軍との戦いにより、小倉城を自焼し幼い藩主・豊千代丸一行が熊本に向け小倉を脱出した際、企救郡南方郡教に防衛線を敷き、長州軍と相対した。停戦協定成立後も請われて再度、家老として戦後の処理にあたった。
「ひろば北九州」2007年1月号に掲載

丸橋 静子(まるはし しずこ)

1910年1月8日〜1965年6月29日 (明治43年〜昭和40年)

滋賀県愛知郡出身  俳人

昭和4年、杉田久女門下に入り、俳句に開眼。昭和7年高浜虚子、星野立子の選で二度『玉藻』の巻頭を飾り、昭和34年、「ホトトギス」の同人に推される。俳句の指導をする一方、小倉で教育委員、人権擁護委員、調停委員などの公職も務め、小倉の小、中学校母の会会長など多くの会にも関係し、多忙な活動を展開した。急逝後に遺句集『あじさい』が出版され、小倉に句碑が2基(小倉南区蒲生の大興善寺境内、小倉北区城内の八坂神社境内)建立されている。

「ひろば北九州」2007年2月号に掲載

鶴島 正男(つるしま まさお)

1926年7月24日〜2006年12月21日 (大正15年〜平成18年)

福岡県田川郡勾金村(現香春町)出身 火野葦平資料館館長、放送作家、高校教師

 若松高等学校、若松商業高等学校で教職。昭和36年、日本放送作家協会会員となり「ガジュマルの樹の下で」(NHK芸術祭参加番組)を島尾敏雄と共同執筆。昭和47年、北九州市市民文化賞を受賞。昭和48年、火野葦平資料館を若松につくる運動を仲間たちと始め、「火野葦平資料の会」会長として資料館の運営にあたった。

「ひろば北九州」2007年3月号に掲載

大隈 岩雄 (おおくま いわお)

 19102月26日〜19896月15日 (明治43年〜平成元年)

福岡県三潴郡城島町出身    郷土史家

文学散歩は昭和21年から始まり、北九州を中心に東は長野、西は対馬、五島と続けられ、399回に及ぶ。聞いた話をもとに『北九州の民話』(小倉編と第二集)を出版。ライフワークは北九州の祭りの研究で、井手浦の尻ふり祭り、隠蓑のしびきせ祭りなどにスポットをあてた。また、田楽、猿楽の一形態で、胸につるした太鼓を打ちながら踊る「楽打ち(がくう)」にも造詣が深く、「道原楽」「石田楽」「沼楽」が福岡県無形文化財に指定されるのに貢献した。 鍼灸業のかたわら昭和27年、曽田共助、劉寒吉らによって小倉郷土会が再興される時に参加して世話人。昭和53年、同会会長に就任。北九州の文化財を守る会、北九州民芸協会での要職に就いた。『ひろば北九州』の4号(昭和53年11月)から65号(平成元年7月)まで10年間「古里の風物詩」を書き続けた。

「ひろば北九州」20074号に掲


西田 直養 (にしだ なおかい)

1793年7月21日〜1865年3月18日 (寛政5年〜元治2年)

豊前国小倉(現北九州市小倉北区)出身   国学者・歌人

 小倉藩士、高橋元義の四男で西田(なお)(うけ)の養子となる。通称庄三郎、筱舎(ささのや)と号す。勘定奉行、元締役、町奉行兼寺社奉行に就任、京都、大坂の留守居役を務める。直養は『金石年表』を日本で初めて手がけた人で『筱舎(ささのや)漫筆』『神璽(しんじ)(こう)』『本学規範』や諸紀行文など多くの書を著した。

「ひろば北九州」20075号に掲載


八橋 検校(やつはし けんぎょう)

1614年〜16856月12日 (慶長19年〜貞亨2年)

山口県萩市「八橋検校之碑」によると小倉出身 箏曲の開祖

 『六段の調』『乱』『組歌』など数々の名曲を作り、若いころから琴・三味線の名人とあがめられ、後に久留米の善導寺で筑紫箏を修行し、平調子という画期的な調弦法を考案、箏曲を広く一般の人に普及させることに成功した。「八橋検校頌徳碑」が小倉城庭園に建っている。

「ひろば北九州」20076号に掲載


伊藤 伝右衛門(いとう でんえもん)

1860年11月26日〜1947年12月15日(万延元年〜昭和22年)

福岡県穂波郡大谷村幸袋(現飯塚市)出身    実業家

 中間市中鶴炭坑の開発に成功し「大正鉱業」を創立。嘉穂銀行、第17銀行(現福岡銀行)の取締役など歴任。43歳で衆議院議員2期6年間務め、伝右衛門の奔走により国営事業として遠賀川改修が13年かけて実施された。また、地域への貢献に女学校設置と育英会の創設がある。 筑豊の炭鉱王の旧宅(飯塚市幸袋の旧伊藤伝右衛門邸)は平成19年4月28日から一般公開されている。

「ひろば北九州」20077号に掲載


大倉 和親 (おおくら かずちか

1875年12月11日〜1955年7月1日 (明治8年〜昭和30年)

東京都出身    実業家

明治37年29歳で日本陶器初代社長に就任し、食器を製造しながら高圧碍子の研究や衛生陶器の開発を進めた。小倉を日本初の衛生陶器生産地と決め、TOTOを大正6年5月15日に設立。  
和親の遺志により遺産は科学技術振興の「大倉和親記念財団」設立に使われ、現在も研究資金の助成などを行っている。

「ひろば北九州」20078月号に掲載


谷 伍平 (たに ごへい)

1916年10月1日〜2007年6月20日 (大正5年〜平成19年)

福岡県直方市出身   元北九州市長

 昭和14年、東京大学法学部卒業後に鉄道省に入省。国鉄門司鉄道管理局長、職員局長、西部支社長、東海道新幹線支社長を歴任。その後、請われて昭和42年、北九州市長に初当選し、五期二十年間、市長を務める。退任後、北九州市立美術館長に就任。84歳で北九州森鴎外記念会会長になり、「生涯現役」を貫いた。 市長時代の1981(昭和56)『鴎外旧居』(市史跡)を買収、修復の上一般公開した。無類の読書家で、昭和50年からの32年間で3,751冊を中央図書館に寄贈した。 昭和5211()北九州市都市協会を創設、昭和532月「ひろば北九州」を創刊し、北九州のまちづくり及び文化振興に多大なる貢献をした。

「ひろば北九州」20079号に掲載


岡田 武雄 (おかだ たけお)

1914年1月11日〜2007年6月6日 (大正3年〜平成19年)

 福岡県三潴郡(現久留米市)出身   詩人
1歳のとき、八幡市枝光(現・八幡東区)に転居。21歳の時、「玄海灘詩人聯盟」を結成。詩誌「八幡(ばはん)(せん)」を発刊した。23歳で越智弾政と共著で詩集『八幡大菩薩』を刊行。敗戦から27年間詩作を断ち、還暦を迎えて自らの詩の戒めを解き、詩集『婦命伝承』を刊行する。昭和52年(63歳)で第10回福岡県詩人賞を受賞。昭和57年、北九州市民文化賞を受賞し、『岡田武雄詩集』を刊行する。昭和60年北九州詩人懇話会代表幹事に就任。昭和61年、72歳で『ひろば北九州』の文化展望(詩)の連載を始め、平成16年まで18年間続ける。この連載は『はらっぱ詩談』『同・続』として出版。岡田は北九州の詩人の育成と北九州の詩壇を活発化させた

「ひろば北九州」200710号に掲載


戸川 幸夫(とがわ ゆきお)

1912年4月15日〜2004年5月1日 (明治45年〜平成16年)

 佐賀県鍋島村(現佐賀市)出身   作家

 生後すぐに若松市(現・北九州市若松区)の実業家、戸川益男と母の実姉い乃夫婦の養子になった。大正8年に八幡小に入学した戸川は父の仕事の関係で上京するまで3年間、同小に通った。東京日日新聞(現・毎日新聞)在職中山形での体験をもとに書いた『高安(こうやす)(いぬ)物語』で、直木賞、新鷹会賞を昭和30年に受賞して作家活動に入る。執筆活動の中で、動物文学を確立。37年『戸川幸夫動物文学全集』(全15巻)で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。40年、沖縄・西表(いりおもて)(じま)でヤマネコを見つけ、828日間、自宅で飼育した。戸川は、紫綬褒章、児童文化功労者、勲三等瑞宝章を受章しており、テレビの「シリーズ 授業」で、八幡で心のこもった教育を受けたと、回想している。戸川文学の原点は八幡にある。

「ひろば北九州」2007年11月号に掲載

森田 光コ (もりた みつのり)

1931年7月15日〜2007年9月17日 (昭和6年〜平成19年)

北九州市若松区出身   実業家

修多羅小学校から旧制若松中学校、その後新制高校を経て昭和25年、学習院大学に進学。合成洗剤の販売が九割を占めていた昭和49年に「環境によくない」と「石けん事業」を宣言する。自ら悩んだ湿疹が石けんで消えた体験や入院で死を意識したことがきっかけだ。「肌にも環境にも優しい」無添加石けんの普及に突き進む。平成3年に出版した合成洗剤と比較して無添加石けんの安全性を強調した『自然流「せっけん」読本』で全国から注文が殺到。年間2億円だった売上高が13年後には55億円に急増、千人程度だった友の会の会員が約20万人に拡大した。  平成12年に「兵庫県環境にやさしい事業者賞」、「九州山口地域経済貢献者顕彰財団の経営者賞」、平成14年「福岡ひびき経営者賞」、平成15年に第一回「北九州市環境賞奨励賞」などを受賞。地域活動にも熱心で「若松を愛する会」会長や若松高校同窓会会長も引き受けた。

「ひろば北九州」2007年12月号に掲載


岡部 宏輔 (おかべ こうすけ)

1906年12月1日〜1996年11月4日 (明治39年〜平成8年)

福岡県遠賀郡長津村(現中間市)出身   実業家

父の仕事の関係で、大正2年に若松に転居。同年4月に若松尋常小学校入学。前の机に玉井勝則、のちの「火野葦平」がいた。大正10年、旧制東筑中学校に入学。昭和3年大学を卒業し、父の跡を継ぐため、「共働組」に入社。25年に第一港運を創立し、代表取締役社長 本業のほかに洞海湾消防団名誉会長、全国防犯協会連合会副会長、日本港運協会理事、裏千家淡交会北九州支部副支部長など48の肩書きを持つ。52年、勲四等旭日小綬章を受章。 若松商工会議所会頭だった岡部と吉田敬太郎若松市長が中心になって募金活動を行い、昭和35年8月1日に火野葦平文学碑を高塔山に建立した。映画ロケの世話を40年間以上続け、若松ロケは28回を数えている。また、岡部は「高倉健の育ての親」といわれている。

「ひろば北九州」2008年1月号に掲載


赤坂 小梅 (あかさか こうめ)

1906年4月20日〜1992年1月17日 (明治39年〜平成4年)

 福岡県田川郡川崎町出身   芸者、歌手

16歳で芸者を志し、八幡市の置屋「稲本」に入る。「梅若」を名乗り、稲本の小倉市移転に伴って、旭町の検番所属になった。24歳で「小倉節」でレコードデビュー。25歳で上京。赤坂の芸者置屋「若林」に籍を置く。小梅は民謡の価値に目覚め、戦後民謡発掘のため、全国を旅する。全国各地を回り200曲にのぼる民謡を発掘してレコーディング。「黒田節」は最大のヒット作である。「小倉節」「小倉音頭」「北九州小唄」「門司港祭り」など北九州を歌で全国に紹介した功績は大きい。

「ひろば北九州」2008年2月号に掲載


横山 房子 (よこやま ふさこ)

1915年1月21日〜2007年9月1日 (大正4年〜平成19年)

 北九州市小倉北区出身   俳人

 20歳頃より俳誌「天の川」に投句。横山白虹主宰「自鳴鐘」に創刊より参加。のち白虹と結婚する。白虹没後は主宰を継承。著書に『背後』『侶行』『一揖』 『干支の盃』 『えにし〜俳句侶行』など

「ひろば北九州」20083号に掲載



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