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サンプル「ファーム」 作・演出:松井周 会見&インタビュー

生命そのものが何にでも成り代われる、それは演劇ではないか。

 少し前になりますが、豚の体内で人間の臓器を作る実験が始まったという記事を新聞で読みました。今は臓器だけですが、いずれ豚が人間を産む可能性もあるかもしれない、というのが今回の作品の着想です。

 僕はもともと、人間は産まれたときから演技をしているという感覚を持っています。演技といっても、先生など身近な人のフリをするとか、マネをするというだけではなく、家族そのもの、自分という存在すらも演じているという感覚があります。

 それを今回の話につなげると、例えばiPS細胞は、受精卵以外のものから万能細胞を作ることを可能にした訳ですが、それまでは受精卵が万能細胞だったわけですね。受精卵からだったら別のものに変われる。その受精卵は男と女がいないとできないものです。iPS細胞の発見で、受精卵じゃないものでもリセットして何にでもなれるとなった時、人間のはじまりに男と女が必要じゃなくなった、という感覚を持ちました。生命そのものが何にでも成り代われる、それは演技ではないか、再生医療と演劇は繋がるんじゃないかと思ったんです。

 

身体を育てる場としての「ファーム」、精神を育てる場としての「ファーム」

 人間の体の中で別の人間の臓器を育てたり、別の人の子供を育てるといったことは、徐々に現実になり始めていると思います。体外受精や代理母といった形で。それがもっと進めば、今までとは違う人間の育て方、身体としての人間の育て方・産み方が語られるようになると思います。今回のタイトル「ファーム」には、そういう人間の身体が育てられる場・産まれる場としての「ファーム」という意味が含まれています。もう一つ「育つ」ということで考えると精神が育つ場、教育も一つのテーマになると思います。肉体が育つ場と精神が育つ場、ふたつのファームの対比みたいなものを作品で表現できないだろうかと考えています。

 そういった現代社会における僕自身の興味は一方でありつつ、基本的にはごく普通の、離婚間際の夫婦のどちらが子供を育てるか、という話を基本に進めたいと思っています。理屈っぽい芝居と思われたら嫌なので、それは否定しておきます。どちらかといえば下世話な、恋人と別れたくないとか、離婚して欲しいとか、子供を預かりたいといったそれぞれの思いがある中で、その背景に人工的に人間が育っていくのはどういうことか、というテーマが垣間見える感じだと思います。

 

他愛もない会話の蓄積が紡ぐ関係性

 これまでどちらかというと、人間たちのディスコミュニケーション、すれ違う人たちを描く作品が多かったと思いますが、今回は家族とその周辺にいる人たちの会話、おしゃべりを中心にした作品になると思います。夫婦喧嘩なら夫婦喧嘩を延々と続けていく中で蓄積される怒りや悲しみ、疲労感みたいなものを、なるべくそこから外れないように描こうというのは、今回の新たな試みです。というのも、最近リアルな世界で人と会話をするということをよしとしない傾向がある気がしていて。そういうのはメールやSNSみたいなネットの中でして、リアルではお互いを傷つけないようにスルーし合うのが基本になってきているように感じるのですが、それではいけないのでは、と思うんです。無理矢理にでも、契約を結ぶように、お互い分かりきったことを、演技でもいいからとりあえず喋るというか、濃いコミュニケーションを取っていく。たとえネガティブな摩擦が起こったとしても、何も起こらないよりは起こした方がよい、という思いがあって。少なくとも、ここから先はそういう風にしていきたいという願望もあると思います。

 

人間の営みも風景の一部にすぎない

 今回はじめて音楽を入れようと思っています。BGMとして盛り上げるための音楽ではなく、人間が普通に会話している横で、聞こえている音。エアコンの音だったり、喫茶店で周りの音にまぎれて聞こえる外を走る車の音だったり、普段は気にしていないけれど、ふとした瞬間に聞こえてくるような環境の中の音が、何か人間に影響を与えていたりするのではないかと思っていて。

 その音楽をつくっていただくのは、宇波拓さんという方です。宇波さんは音楽というよりも音響というか、環境の内で鳴っている微細な音を音楽として取り入れてつくる方で、その方の発想を取り入れたいなと思っています。それがどういう風に自分の作品に影響するかは未知数ですけれど、私たちはそういう環境で生きている、ということに気付く瞬間はあると思うし、人間の営みも風景の一部にすぎないという感覚は、サンプルの元々の発想としてあると思います。

 

いかがわしさと事実の境目にスリルがある

 作品のテーマとして惹かれるのは、何かしらいかがわしさと事実の境目みたいなところかもしれません。そこが一番スリルがあると思うんです。今回にしても、本当に豚から自分が産まれたらどうしようって思うんですよね。親を紹介して下さいとなった時、自分の親が豚ですという、どこか笑いを抑えきれない感じと、でもそれが事実であるという感じ。親が豚であるということで、ものすごく差別されるかもしれないし、ある種特別だということで大事にされるかもしれない。いかがわしさと事実の境目が生むそういった部分にも惹かれます。

 豚から産まれたとしても、細胞は人間のものなわけで、ということは人間の親もいるわけですが、じゃあその両者が話し合うような事件がおきた時にどうするか、というのも関心があります。普通は同じ土俵に乗らない、コミュニケーションのルールが違う人たちを同じ土俵に乗せることの、笑いとも差別ともつかない感じ、それが面白い。みんな真面目なのにどうみても喜劇だっていうのは現代的な現象かもしれません。それをコメディにして安全な位置から見せるというよりも、笑いにならなくてもいいから真剣に見せたい。作品を観る人が、どちらともつかないはざまの地点で、どうしたらいいのか分からないという状態になって欲しいと思います。常に複数の方向にひっぱられている、そんな地点をつくりたいんです。

 

▼北九州芸術劇場HPのためのスペシャル・インタビュー

新作「ファーム」の背景に流れる「再生医療」への関心、人の生を取り巻く情報の現実について、松井さんにもう少し詳しくお話を伺いました。

 

数字という情報だけで決めざるを得ない状況への問い

 再生医療であったり、人工的に子どもを育てる一連の技術の中で、一番ひっかかったのはデザイナー・ベイビーの話です。遺伝子操作を受精卵に施す事で、ある種の特徴や遺伝病を回避しようとする発想は、親の立場から見れば、子供のためだという感覚はあると思うのですが、一方で子供は親の決定に全く関与できない状態にあるわけですから、やはりそこにはある種の暴力があります。

 どちらが良いか、その答えがないから考えたいという気持ちもあります。例えば少し前に、出生前診断でダウン症の可能性があると分かった人の90%以上が中絶を選んでいるという記事がありました。一方で、フランスなどでおきているロングフルライフ訴訟(wrongful life trial)では、障がいを持った方たちが、親に対して、なぜ自分を産んだのかを問う裁判を起こして勝訴しています。この訴訟には衝撃を受けました。親が自分を産んだことに対し、「こんな人生を送ることがあらかじめ分かっていたにも関わらずなぜ産んだのか」を問うというのは、自分を否定する行為ですが、そんな裁判がおこる。そうした問いにどう答えられるのだろう、というのはずっとひっかかっています。

 倫理と呼ぶべきか分かりませんが、僕としては選択肢が増えれば良いと思っているんです。産むにしても産まないにしても。ただ産んだ場合にどういう大変さやサポートがあるのか、情報や実態を知った上での選択ができにくい状況があると思います。だから、こういう遺伝子があって、障がいが生じる確率が何%で、という限られた部分で決めざるを得ない。そのことの怖さは描きたいと思いつつ、一方で「なぜ私を産んだんだ」という、産まれて来た人の問いにも向かわなければいけない。

 

数値的な情報と実態を持った質

 演劇の可能性として、存在の大きさがあると思うんです。演劇における「近さ」はすごく重要だと思っていて。そこに人がいて何かをしている、その「人がいる」という感覚であったり、そのことで生じる反射であったり。同じライトに僕もあの人も照らされていて、そのライトの下で自分は今本を読んでいるということの価値というか。数値に置き換えられない感覚を共有している、ということの大切さというか。もちろんそこで共有される感覚も何らかの形で数値に置き換えられるかも知れないですが、それでも近くにいて感じる、そのことの強みはある。

 例えば、「すごく怖い人」だと言われている人に実際にあったら、実際には「すごく怖い」という以外にもっと複雑なもの、その人の質みたいなものをその人がまとっている、ということはよくありますよね。その複雑さ、質を味わうといった所が演劇の強みとしてあると思います。情報にまみれていると、そうした強さが捨象されているというか、ないがしろにされていると感じる事はあります。

 今回、これまで作品づくりの軸にあったディスコミュニケーションから会話の側に力点を置いているのも、具体的な摩擦を起こしていく必要がある気がするからなんです。摩擦が起きて、そこで話されている内容が相手を傷つけるようなものであっても、喋っていられれば、向き合って質を感じ合えていれば大丈夫という感覚があるんです。一見意味がなさそうなやり取りの中にも、何かしらの質があって、それを今は見たいなと思っています。

 

緩衝地帯としての演劇の可能性

 演劇って現実に関わる事は無理だけど、どこか緩衝地帯になりうると思っているんです。現実のひどい事からも、空想だけの、ある種もろい人間の捉え方からも距離を置きつつ、どちらにも当てはまる。さらに舞台に立つのは生の人で、役者が実験材料になってある状態を見せてくれる。その時にオレはこうかも私はこうかもっていう現実への関わり方のヒントをもらったり、自分が持っている妄想と現実社会の法則みたいなものを比較して受け取ったりできる。演劇にはそういう効果があるというか、演劇はそういう存在だと思うんです。

 とはいえ、現実の事件の中には、こちらが伝わったと思っているようなことや、了解し合っているという思いが完全にずれている人がいる、ということを思い知らされるようなものもあって。それでもどういうコミュニケーションが取れるのかを考えつつ、どんどん暗くなる部分はあります。それでも何かしらあるはずだ、ということをずっと考えています。

 

 

サンプル「ファーム」 公演情報はこちら

2014年10月11日(土)14:00/18:30・12日(日)14:00

 

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