HOME > イベント情報 > 劇団Ugly duckling「照準Zero in」

ツドエmeets北九州vol.3
劇団Ugly duckling「照準Zero in」
2009年12月の大阪公演後、脚本を執筆された樋口ミユさんにお話を伺いました。 

 

Q: 今回の作品にはパレードが登場しますが、以前「せりふの時代」の短編戯曲特集の際に、「パレード」という作品を書き下ろしされていますね。

もともと「照準Zero in」について構想していた時に、短編執筆の依頼があったので、今回の作品の元になるものを書こうと思ったんです。あの短編を書いたのが4月くらいですね。

 

Q: その頃から新作は「パレード」をモチーフにして書こう、と思われていたんですね。

そうですね。「照準 Zero in」のタイトルを決めたのは一年くらい前ですが、その頃からパレードの話にしようと思っていました。パレードにもいろいろな種類があって、同じ一本の道路の上をいろんなパレードが通り過ぎていきますよね。一つ一つのパレードには始まりと終わりがあって、でも一つのパレードが終わっても、また次のパレードがやってくる。「あぁ、これは時代と共通しているな」、と思ったんです。

時代にも始まりと終わりがありますよね。昭和という時代が終わりって次の平成っていうパレードがやってくるといった感じで。パレードを通して時代というものについて考えようと思って書きました。

それにパレードって、実際に来てみないと分からないじゃないですか。もちろんそのパレードの形態とか人数とか、事前にデータでもらっていればまた別なのかもしれないですけれど、それでもパレードってどこか実際に見ないと分からない、得体のしれない感じがあると思うんです。それがこれからやってくる時代にも似ているな、と思って。何か得体のしれないものがやってくる。それが何かは分からないけれど人は待ってしまう。次は何かいいことがあるんじゃないかという期待感と共に…
それにパレードも時代も、通りすぎるとあっという間なんですよね。自分の青春時代にしても、去って行ったあと振り返ると、なんだかすごく遠いことのような気もする。いったん通り過ぎてしまったものは、自分の中の記憶としてしか残らない。それもパレードと時代とか歴史の共通点かな、と思います。

 

Q: 今回の作品のタイトルは「照準Zero in」で、作品中にも銃声や紛争をイメージさせる描写が登場します。そういった部分を総合した時に、樋口さんの「時代」感にはどこか暗い部分があるように感じるのですが。

私、根が暗いんですよ(笑)。時代のことを考えるとどうしても戦争というものが外せなくなっちゃうんです。戦争ってどの時代にも起こっているし。もちろん他にもっと楽しいこともあると思うのですが、私が引っかかる部分は戦争。いつもそうなんです。

 

画像:「照準Zero in」大阪公演より 撮影:中島仁實(stage−connection)
   

Q: 今回に限らず、劇団アグリーダックリングの作品を通して、戦争というテーマが常にどこかに流れているということですか?

そうですね。戦争に対してなぜこんなにシンパシーを感じるんだろうって不思議に思うんですけど。何だかスピリチュアルな話になってしまいますが、今の人生の前に何度か生まれ変わった際、何かしら戦争に巻き込まれる人生を送ってきたのかもしれない、と思ったりします。すごく悲惨だったり、戦争で甘い汁を吸ったり。今回はたまたま戦争から少し距離のある所に生まれてきたけれど、だからこそこうして芝居で引き寄せているのかなって。全く根拠はないんですけれど、そんな風にも感じています。
人にはそれぞれシンパシーを抱く対象があると思うのですが、私にとっては戦争がそうなのかな、と。

 

Q: なぜ戦争なのでしょう?

戦争って逃れられない時代の動きだと思うんです。個人がいやだと言ったとしてもそれを受け入れてもらえない時代状況とか時代のうねりとか。脚本を書く時には、基本的には個人的な話で構成していくのですが、私の場合は個人の話をしていたとしても、そこに、個人の意思を阻害するような外側の要素みたいなものが常に入り込んでくるんです。
そういう意味では今回も同じですね。いろいろな思いを抱えた個人がいて、でも自分たちが生きている時代とか状況下でその思いが歪められ全うできなくなっている。登場するのはそういった人たちばかりです。やっぱりネガティブですね(笑)。

 

画像:「照準Zero in」大阪公演より 撮影:中島仁實(stage−connection)

Q: 作品中に登場する、詐欺まがいな悪徳商法とか、自己啓発を思わせるような集まりといったものも、ある意味個人がいやおうなく巻き込まれてしまう外側の力なのでしょうか。

劇団アグリーダックリングの芝居は時代背景としては、どこか未来的な部分があると思うのですが、部分的に私が実際生きている今の時代の要素というのは入り込んできていると思います。悪徳商法にしても詐欺まがいな集まりにしても、そういう理不尽なことって普通にその辺にいっぱいありますよね。自分の意志とは関係なくどんどんやってくる理不尽な状況。ボーっとしていたらどんどん流されて時代のいいカモにされてしまうという。

 

Q: 脚本を書かれる際に具体的な社会的事件から着想することはあったりするのでしょうか?

いろいろ考えると、結局普遍的な問いに立ち戻っていく感はあります。お芝居のスケジュールを考えた時に、顔合わせに間に合うようにするには、本番の2カ月前ぐらい台本ができていないといけなくて。そうすると、台本を書いている頃の事件を盛り込んでしまうと、2カ月先の本番にはちょっと古くなってしまうんです。ちょっと古いのってすごく気になるんですよ。10年前とか100年前のことだと逆に気にならないんですけどね。そうやって考えていくと基盤になるのはどこか普遍的なことなのかな、と。最近は、どう生きるべきか、といったことばかり考えています。

 

画像:「照準Zero in」大阪公演より 撮影:中島仁實(stage−connection)

Q: 今回作品を観させていただいて「自由」についての考察が印象に残ったのですが、「自由」は今回の作品のテーマの一つとして考えていらっしゃいますか?

自由について考える中から今回の物語を作ったわけではなく、「ああ」と「いい」という二人の物語を考えていく中から自由という言葉がでてきた、という感じです。自由に憎しみを膨らませられるけれどもそれを行動にうつせない女の子「ああ」と、憎しみも苦しみもないけれどもただ撃たなきゃいけない状況に置かれている男の子「いい」。彼は身体を自由に動かせるからいくらでも引き金を引ける。一見相反する二人なのですが、共通するのは自由と不自由さの両方を抱えているという所なのかな、と。
「いい」が言う、自由云々というセリフのディテールはそんなに重要ではないのですが、「不自由を忘れた人間は悪魔にも匹敵し、自由を忘れた人間は地獄のように救いがない」という最後の一文だけはどうしてもいれたかったですね。むしろそれを言うために、その前の自由についてのセリフがあるような。この一文は「ああ」と「いい」のことですが、この自由と不自由というテーマが、やっぱり戦争に繋がって、時代に繋がって、パレードに繋がっていくんです。戦争の時にどれだけ自由があるかとか、「ああ」にとっての自由が戦争に近いものになっていく様とか、家庭における戦争的な状況とか。人が二人いれば、必ずそこにいざこざが生じるわけですが、普通に生活していてもまるで戦場にいるような状況って生まれてしまうものだと思うんです。

自由と不自由がなぜ重要かというと、自由と不自由って本来は選べるものだと思うのですが、それができなくなる状況があって、それが戦争なのかな、と思うんです。戦争の時、感情が麻痺する瞬間ってあるじゃないですか?正に「いい」がそのタイプなのですが、撃っても撃っても何も感じない、人を殺しても何も感じないという状態になっているんですね。何も感じないということは喜びも感じないということです。戦争という状況の下で、いろいろな感情が飽和して何も分からない、何も感じないという風になる。それが戦争に巻き込まれた普通の人の感覚なのかな、と。いったんそうなってしまうと、例えば「自由に考えていい」と言われても、もうそういうことができなくなってしまう。同じような状況が「いい」と「ああ」の家庭の中に瞬間的に作られるんですね。自分は相手を憎んでいるのか愛しているのか恨んでいるのか、もう分からないって。
自由と不自由、そのどちらも選べないくらい感覚が麻痺する瞬間が人間にはあって、それは戦争に似ている、と思ったんです。

 

Q: 後ろでずっと布を縫っている女工の存在も印象的です。

彼女たちは時代を縫う女工なんです。楽しい時も、戦争が始まろうとしている時も、彼女たちは縫い続ける。もしかしたらそれが生活の糧になっているのかもしれませんが、とにかく縫い続けるんですね。そのそばで農婦が「いつか終わるわ」って。。

 

Q: 今回の作品の中で、農婦は唯一希望を感じさせる存在ですね。

そうですね。作品の中に大地の女の人を出したくて登場させたんです。どういう状況でもお腹は減るし生きていかなきゃいけない。そういう感覚が彼女から別の誰かへと受け継がれていく、それが唯一の希望ですね。
私はとてつもなく暗くてネガティブだと思うのですが、とてつもなくネガティブだと、ほんの一筋の希望が光り輝いてみえるんですね。真っ暗な中に一点の光みたいな感じで。周りが明るい状況ではどんなに光っていても分からないんですけど、真っ暗な中で一瞬キラッと光ったら「あ、それ!」っていう気持ちになりますよね。それを必死で掴もうとするのが人間なのかな、と思ったりします。

 

画像:「照準Zero in」大阪公演より 撮影:中島仁實(stage−connection)
   

Q: 樋口さんの作品は、いくつものストーリーが重層的に重なりあっていたり、いろいろなメタファーが組み込まれていたりということで、時に「難解」と評されることもあるようですが。

最近大分複雑さはなくなりつつあるのですが、まだついいろいろ入れてしまう癖はあります。パズルのようにたくさんのピースを操りながら、繋げていく作業は楽しいのですが、見ている方はできあがった絵を見てもさっぱり分からない、自分自身でさえも、何年かたってから作品を読み直すと、全く分からないといったことがあって、これじゃ駄目だなと思って。それで100ピースだったものが10ピースくらいになって、10ピースだったものが半分の5ピースくらいになって、今やっと5ピースから3ピースくらいまで絞られてきた感じです。ここまでくるのに10年もかかってしまいましたが…3ピースから1ピースにするにはあと2〜3年かかると思います。
100ピースの時は100ピースの楽しさ、10ピースには10ピースの楽しさがあるので1ピースになった時にはまた1ピースの楽しさがあると思うんですが、今はまだ3ピースもうまく扱えていない所があるので、しばらくは3ピースで考察を続け、それがもう少し自分の中でクリアになってきた時点で、「これはいらないな」、「この一つだけでもっと深めていける」という判断をしていきたいと思います。今、やっとそのとっかかりをつかみ始めた所なので、あせらずいこうと思っています。

 

Q: 日本の劇団は作、演出を一人の人が行う所が多いと言われますが、劇団アグリーダックリングでは作は樋口さん、演出は池田さんという風に分けていらっしゃいますね。
作品世界を作る上でお二人の役割分担みたいなものはあるのでしょうか?

役割分担というとちょっと違う気がしますが、劇団員同士でイメージを持ち寄る感じはあります。私も作品ができていく段階で自分の意見をいろいろ出しますし、衣装も担当している劇団員の出口は役者としての立場からイメージを提示するという感じで。特に池田のモットーは台本から外れないことでもあるので、彼女としては台本に書かれたことを忠実に立ちあげていくという感じです。
もちろん稽古の段階で、池田の演出を見て「それ、書いてないよね」とかは言います。「これはこう思ってこういう繋がりで書いているから」とか。それで池田から、「それはそう読んだけど違う風にしたい」といったことを言われたり。イメージを共有するためのすり合わせはしますね。
私自身、台本にはかなり細かくイメージの描写を入れるのですが、読んでいて「ここどうすんねん」って思われる所も多いと思います。私は台本も小説のように読めないだろうかと思っているので、「はける」とか「暗転」といった単語を使わず、ト書きすらも詩的に書いてしまう所があるので…

 

画像:「照準Zero in」大阪公演より 撮影:中島仁實(stage−connection)

Q: 北九州公演への意気込み、北九州の観客へのメッセージをお願いします。

初めての場所で、初めてのお客さんに出会えることが本当に楽しみです!この九州公演での一人目のお客さんが、そのあとに続くたくさんのお客さんへと繋がっていくように頑張ります!

 

戦争と平和、

自由と不自由、

被害者と加害者の問題、私たちが知り得ない他者の歴史や記憶、

すべてを取り込み流れていく時代と、そこで生きていく人々…

 

私たちが生きる世界の断片を巧みにつなぎ合わせ、

現在とも過去とも未来ともつかない不思議な劇世界に観客を引き込むアグリーダックリング。

他には例を見ない、独特の作品世界を、ぜひ劇場でご体験下さい。

 

公演情報はこちら

このページのトップへ